グーテンベルク

グーテンベルク

 
第1次世界大戦後のインフレーションを初めとするドイツ経済の動向が企業にさまざまな問題を投げかけたが、グーテンベルクは生産、販売、財務といった領域で、個別的に展開された問題をミクロ経済理論を導入した一般理論の中に体系的に位置づけた点が戦後高く評価される。
グーテンベルクは国民経済学と経営経済学の2つの明確な規定はないが2つの経済学が存在するとした。
理論科学としての経営経済学とは、断片的な実務知識よりも企業を全体的に見通せる簡明な理論体系こそ真の実践意義を持つとしている。
経営を体制無関連事実と体制関連事実の結合体として把握
体制無関連事実とはあらゆる経済体制に共通する生産要素の体系と財務的均衡原理と経済性原理である。
体制関連的事実とは特定の経済体制のみに妥当する自律原理と営利経済原理と単独決定原理である。
基本的な生産要素を労働と材料と経営手段として、生産要素と結合する職能として企業者技能から管理的要素とした。
グーテンベルクは生産性関連の投入から産出関係を経営経済学の中心として、企業の経済的な数量関係の分析とミクロ経済学の分析装置や成果の利用をした。
1950年代から60年代後半にかけて西ドイツ経営経済学はグーテンベルク理論が支配的な状況になり、経営経済学の基本テーマを生産性問題に限定して、経営経済学の進歩の測定容易化して、学問の展開や体系化を促進。また一定の実践的有効性をも獲得して、学問的にも実践的にもきわめて魅力的なグーテンベルクパラダイムを形成した。

 

第1次方法論争

 
ドイツでは1800年代に工業化による急速な発展により、労働問題が深刻化して、指導者が不足したので企業管理者の育成のため1900年代初頭に商科大学を設立して中心科目に私経済学をおいた。しかし私経済学有害論など、私経済学は資本家のための金儲け論という批判から第1次方法論争がおきた。私経済学は資本主義企業を対象にした利益追求であり、たんなる金儲け論という批判からの解放がドイツ経営学の課題であった。

 

 

第2次方法論争


第1次世界大戦後のヴァイマール期の経済復興時にドイツ経営学は基本的に確立する中で、利益追求学からの解放と経営学を1つの独立した科学の位置づけが課題であり、ニクリッシュやシュマーレンバッハが方法論を提示する。またドイツ経営学が自らの名称を経営経済学へと変化させていく中、リーガーは堂々と私経済学への回帰を主著した異端児である。リーガーは経営概念を技術的なものとして排除して、あくまで資本主義企業を研究対象に限定して経営学を事実の認識を目指す純粋科学とした。

 

 

第3次方法論争

 

 
技術論学派経営経済学のメレロヴィッツによる第3次方法論争が起こる。主な内容は「経営の現実の抽象化、悪しき理論主義」(応用科学 対 純粋科学)と「経営経済学の工学化ないし数学的技術主義化」(数学的分析方法の是非)と「近代経済学の分析装置の利用、経営経済学の国民経済学化」(経営経済学 対 国民経済学)であり。論争の焦点は費用論争であるが、グーテンベルクの主張は揺るがされずに方法論争は消滅したが、若い世代の研究者はグーテンベルクが拓いた方法と領域の研究に着手するようになる。

第4次方法論争
1970年代のドイツ経営学の特徴としては、グーテンベルクの生産性志向的経営経済学を出発点として、ハイネンの意思決定志向的経営経済学やウルリッヒのシステム志向的経営経済学として展開されると同時に、人間主義的視点からメアヴォルト・グループの批判や、労働志向的個別経済学(AOEWL)と経営経済学との資本志向的経営経済学 対  労働志向的個別経済学など第4次方法論争などからグーテンベルクの再検討が行なわれた。
グーテンベルクの営利経済原理や単独決定権利が批判の対象。